スタンディングバイザレイク



その日はとても暑かったのできっと自分はどうかしていた。
いつもは行かないような、校庭の奥の奥に行ってみたのもその表れだと思う。
その場所は入学してまもなくのころに訪れたきりだった。好奇心旺盛だったあのころは広大なホグワーツの全てを知ろうなんて野望を抱いていて、何十年も人が訪れていないような場所にさえためらわずに踏み込んでいった。
そういう勇敢な、幼い冒険家にとってそこはたいして魅力的な場所ではなかった。
鬱蒼とした森の向こうにあるのは何の変哲もない小さな湖だった。そんなのはこのホグワーツにはいくつもあって、ひとけがないという点を除いてはとくにすばらしい場所でもなかったのだ。


とても暑い。
石造りの建物はひんやりとして心地よいが、それを上回る勢いで暑さは増していった。
暑くて暑くて暑い。異常気象だ。
今からこんなに暑くて真夏はどうなるのだと思ったが、どうせその頃には夏休みでホグワーツにはいない。この暑さが局地的なものであることを心から祈る。
間近に迫った試験の勉強、なんてこの暑さでどうでもよくなって、リーマスは毎月のことで寝込んでいて、シリウスはその看病だった。今月はちょっとひどかった。左腕の裂傷がひりひりする。浅いのでかまわないが、彼がこの傷を見るたびに傷つくのは判りきっていたので、そして彼はそれを表に出してくれないので、ジェームズは見舞いには行かなかった。
そんな時にふと思いついたのがあの場所だった。
人の体温と放出する二酸化炭素から離れれば少しでも涼しくなるのではないかと思ったのだ。ひとけがないのが唯一の利点のあの湖。水辺だし、涼しいに違いない。


日かげと、森沿いを選んで歩いてきたので、それほど暑くはなかった。といってもそれは結局相対評価で、汗ばむ程度には暑い。気まぐれに吹く熱い風に閉口する。
ジェームズは無心で歩いた。休日なので大王イカの湖のほとりにカップルが何組かいた。この暑いのに物好きなと思ってしまうのはひがみだろうか。このジェームズ・ポッターが。陽に映えるつややかな赤毛が網膜にちらつく。


記憶より大きく育った森を抜けるとやっと目的地だった。視界が開けて澄んだ水をたたえた湖と青い空が見える。
爽快、と思いきや、先客があったのでそうでもなかった。なんとスネイプだ。
彼は湖のほとりに立っていた。思いつめたような顔をしている。しかしジェームズは彼の様子には大して興味はなかったのでどうでもいいことだ。
ひとけがないという唯一の利点すら失ったこの場所に用はないので、スネイプに見つからないうちに立ち去ろうとするが人の気配に気づいたのか彼がこちらに目をやる。ジェームズの姿に気づいて不機嫌そうに言った。
「・・・ポッター、何をしている」
「な、なにも・・・」
思わずうろたえてしまって、しかし今は何も悪いことはしていないことに思い至ってジェームズは虚勢を張った。
「君こそ!こんなところで何してるのさ」
スネイプはめんどくさそうに少し離れたところに目をやる。
「薬草を、・・・・・・」
彼はそれきり黙りこんでしまったのでジェームズは視線の先を見た。新聞紙を何枚か地面に広げた上に大量の薬草が積んである。こんなにあってどうするというのか。
「これ全部君が」
摘んだの、と訊こうとしたがそんな当たり前のことを言うのはあまりにてきとうな世間話すぎてやめた。
「使うの?」
代わりに言ってから、まさかと自分で否定する。
いくら乾燥させて保存できるとはいえ、一人で使うには多すぎる量だ。おおかた薬屋かどこかに売って小遣い稼ぎでもするのだろう。もうすぐ夏休みだ。彼もいろいろ物入りなのかもしれない。
学校のもので商売するのはあまりほめられたことではないが、ジェームズ自身規律やそういうものを守るタイプではないので咎める気はない。しかしどちらかといえば彼のほうが規律あるいはマナーというものを気にかけるのではないか。
スネイプは黙っていた。心なしかさっきより暗い顔をしている(といっても彼の顔はもともと暗い)。さすがに少し気になったのでジェームズはスネイプのほうへ近寄った。
そのとき風が吹いて―――たいして強くもなかったのに、スネイプは風に押されるように体勢を崩した。
え、と思う間もなく彼の細いからだが大きく揺らいで水面に落ちる。


「スネイプ!」
いくら相手がスネイプだとして、湖に落ちようとしているのを見たら人間として助けなければ、という実は時々存在を忘れる正義感なんてものがこのときはひょっこり顔を出していた。
名前を呼んで、走り寄る。
時既に遅しというか、もともと間に合う気なんかしなかったけれど彼の体は水しぶきを上げたあとぶくぶくと沈んでゆく。
「・・・・・!」
ほとりに膝をついて覗き込む。透明な水の中をスネイプが漂っているのが見えた。何なんだあいつ、もがきもしないで。
スネイプはいったん沈んだあと、浮力によって浮かんできた。その間彼は仰向けに力を抜いているだけで、沈むまいとするとか早く浮かぼうとするとかは一切しなかった。このまま溺死してもかまわないと言わんばかりに目を閉じて身を任せている。
「何なんだ」
自殺をするならせめて自分のいない所でしてほしかった。目の前で人が死ぬかもしれないのをただ眺めているのは目覚めが悪い。
ジェームズはスネイプの腕をつかんで力任せに引き上げた。その腕の細さと冷たさにぞっとする。
草の上に横たえて、まさか死んでないよなと首筋に手をやった。ひやりとする。白くて細い。
それでも脈はあって、一安心して手を離そうとすると彼が突然咳き込んだのでジェームズは固まった。スネイプは苦しげに咳をした後、浅い呼吸のまま傍らのジェームズを見上げた。そしてジェームズの手が首にかかっているのに気づいたことにジェームズも気づいて、慌てて離そうとしたら逆につかまれた。
「・・・首を」
まだ酸素が足りないのか彼は休み休み言った。
「首を、絞めたりは、しない、のか」
「・・・は」
ジェームズは目を丸くする。湖に落ちたり、首を絞められたがったり。こいつはマゾなのか、それともやはり自殺志望があるのか。
「家に・・・」
スネイプは何か言いかけて、やめた。ゆっくり上体を起こしてつぶやく。
「余計なことを」
「は!?君ねえ、仮にも命の恩人に・・・」
呟きはもちろんジェームズにも聞こえて、憤慨した。
「そういうのは生きたがってる奴にしてやればいい」
「じゃあ君、さっき死にたかったってこと」
ジェームズの苛立った声にスネイプは否定も肯定もしなかった。
「なら僕のいないとこでやれよ!気分が悪いだろ」
「貴様が勝手にここに来たんだ」
「・・・・・・!」
ジェームズは珍しく自分の行いを後悔した。何でこんな奴を助けてしまったのか。
「それは失礼したね!僕は消えるからあとはご自由にどうぞ」
吐き捨てて立ち上がると干された薬草の山が目に入った。今から死ぬ人間がこんなものどうするというのだ。
「あれ、どうすんの」
あごでしゃくると彼はうるさそうにジェームズを見上げる。
「少なくとも貴様にはやらん」
冥土の土産だ、と彼は面白くもなさそうに言った。
「ああそう。あれだけあればどんなに怪我しても安心だね、スニベルス」
どうせ君は向こうに行っても闇の魔術に首ったけなんだろうとあざ笑っても、彼は何も言わなかった。


あのあと、面白くなくなってあの場所から立ち去った。結局あれ以来訪れていない。
避暑のために訪れたはずなのにちっとも涼しくならなかった、むしろ苛立ちで体温が上がった気がする。
苛立ち、とは何に対してだろうか、と最近少し考える。予想外に人がいて、しかもそれが好きになれない人間だったからなのか。せっかく助けたのに感謝の言葉ひとつなく、むしろ手出しを咎められたからか。それとも、彼が命を無駄に捨てようとしていたからだろうか。
当時既に魔法界には不安が広がっていた。闇の陣営に殺されたとされる魔法使いもちらほら出始めていた。そんな時に命を粗末にするのは死んだ彼らに失礼だと思ったのだ。それでも彼を一人放置したのはどうせ死ぬ勇気などないだろうと彼を見くびっていたからだ。実際その日の夕食に彼は姿を現した。口だけの人間めと内心軽蔑もした。
その後、スネイプの家庭の事情を少し耳にした。噂だから本当かどうかはわからない。しかしそれを聞いて、あのときの彼の言いさしの言葉がよみがえったのだ。
『家に・・・』
帰りたくない、と。言おうとしたのではないか。ちょうど夏休み前で、気の早い人間はすでに帰省の準備を始めている頃だった。夏休みは学校にいられない。
帰るくらいなら、死にたかったのか。ジェームズは暗澹たる気持ちになった。そんな人間もこの世界にはいるのだ。
ふと彼の細い腕を思い出した。
あの年の男子にしては細くて、そもそも彼は小柄だった。体格なんて個人差の現れる最たるものだし、気にも留めていなかったがそれも家庭の事情とやらが関係していたのだろうか。
あの頃はまだ青臭くて、あらゆることに無頓着だった。自分たちはひとしくホグワーツ生であり家など関係ないと思っていた。そうではないと気づいたのは最近のことだ。その点彼は自分よりずっと大人だった。

湖に沈もうとしていた彼をきっと忘れない、あの温度も、青春の1ページという言葉で片づけるには冷たすぎる。