落陽


夢を見た。
昔の夢だ。今はもう天上の住人となった彼と酒を飲み交わす夢。
楽しかった。この時間はいつまでも続くものだと、彼とはずっと共にいられるのだと信じきっていた。
若いとは、無知とはなんと傲慢であったものか。
今はもう知っている。永遠などないのだと。人はいつか去るのだと。


ミッターマイヤーは、午後の光が差し込む執務室で眠りの淵から浮かんできた。つい先日、大きな仕事が終わった。それまでの忙しさとは比べようのないほど長閑な日々だ。
しかしそれでも日常の細々とした仕事は絶え間なくやってくる。一のものを百回やるのも、百のものを一回やるのも同じくらい疲れるものだ。
今、帝国の存亡が彼一人の肩にかかっていると言っても過言ではない。皇帝はいまだ幼く、かつての僚友たちはことごとく戦火に散った。
ヒルデガルドとミュラーが残ってくれているのがせめてもの救いである。そして、幼いとはいえカイザー・アレクの存在がどれほど支えになっているか。彼は帝国に残された数少ない光のひとつだった。


ミッターマイヤーは瞑目する。それでも、と思ってしまうのだ。皆が生きていたらどんなにか良かっただろう。
聡明なカイザーのもと、キルヒアイス元帥が音頭を取り、ルッツ、ファーレンハイト、シュタインメッツ、ロイエンタールたちと共に・・・。
「・・・・・・・」
けして忘れることのない、一人の男を思い出す。飲みに行くときはたいてい彼の方が早く仕事を終えて、ミッターマイヤーが終わるのを待っていた。なのにさいごだけ待っていてくれなかった。
忘れたわけではない。思い出すのが辛いから、思わないだけだ。
毎日めざましく成長を遂げる彼の遺児の、明らかに父親遺伝の黒髪を撫でるときも彼のことは考えない。
その名を口にすることもない。言葉にしたら、途端に悲しみがあふれてくるだろう。出会って十数年、何千回と呼んできた名前には回数に相当するだけの思い出がつまっている。
しかし―――
夢に見たせいか、猛烈に会いたかった。色の異なる瞳、彼は心底忌み嫌っていたが、実は自分はとても好きだったのだ。昼と夜の空の色。もちろん口に出したことはないが。
時々きらりと光ることがあって、あれは本当にきれいだった。軍人のくせにやけにきれいな(しかし男っぽい、無骨な)手や、酒が入るといつもの10倍くらい艶やかになる声が、本当に好きだった。
会いたい。
彼をしのぶよすががその名しかないのなら、叫びたい。心の底から。
「ロイエンタール・・・」
叫びたいと思った言葉はしかし、存外弱々しく執務室に響いた。当然のこととはいえ、返事のないことに軽く失望して、仕事に戻るはずだった。しかし。
「何だ」
懐かしくいとおしい、その所有者と共に永遠に失われた声に目を開けると、そこにはいないはずの人物が立っていた。
「ロイエンタール!?」
勢いよく立ち上がった拍子に、椅子が豪勢な音を立てて倒れた。
「だからなんだ」
からかうような口調も彼そのままだ。ミッターマイヤーは視界がぼやけていくのを自覚した。
「どうして・・・」
山ほどの言葉が喉のあたりでつまって、かろうじて出た言葉もひどく掠れた。
「会いに来た」
彼は変わらぬ笑顔で言った。
「卿が呼ぶので」
「・・・・・!!」
頬を涙が滂沱と流れ落ちた。あの時以来、ずっと涙は流さなかったのに。立ち尽くすミッターマイヤーにロイエンタールが近づく。
傍に来て、涙の途切れぬ頬に手をやった。
「泣くなよ、ミッターマイヤー」
名を呼ばれて、さらに涙が溢れ出す。何年ぶりだろう。以前は当たり前のことであったのに、今では何物にも代えがたい幸せだ。
「ロイエンタール、」
「うん?」
嗚咽が混じらないようにするのは至難の業だった。
「どうして待っていてくれなかったんだ」
「待ちくたびれたからな。卿、『疾風ウォルフ』はどうした?」
うるさい、と彼の肩を小突くと、厚い筋肉を感じる。
「なぜ置いていった?おれがどれだけつらかったか判るか?」
涙は止まってきたが、声は震えた。
「しかし、卿には奥方がおられるからな。連れては行けないだろう」
「誰も連れて行けなどとは言っておらん!残っておればよかったのだ!わざわざ死に急ぐことはなかった!」
きっと睨みつけると、ロイエンタールは複雑な表情で言った。
「だがな、ミッターマイヤー。カイザーは戦いを望んでおられた。そして俺もカイザーと戦いたかった」
「ばか野郎!カイザーと戦うだと・・・!」
なおも言い募ろうとするミッターマイヤーをロイエンタールは抱きしめた。意表を衝かれたミッターマイヤーは目を見開く。
「・・・すまなかった」
耳元で囁かれる。何に向けての謝罪なのか、すべてに対する謝罪なのか、問うこともなくミッターマイヤーは首を振った。
謝るくらいならやるなと思う。涙のにじむ目を彼の肩に押し付け、腕を彼のからだに廻す。
厚い胸板も鍛え抜かれた筋肉も、低めの体温も懐かしいにおいも、すべてが昔のまま、まさしく彼そのものだったが、だからこそミッターマイヤーは知っていた。
「・・・これは夢だな?」
疑問形でありながら、それは疑問ではなく確認だった。ロイエンタールは無言だったが彼に同意は必要なかった。
「は、おれはなんて情けないんだ・・・」
いくら忙しいとはいえ、夢で故人にすがるほど女々しいやつだとは思わなかった。自嘲の波が心に押し寄せる。
「卿は卿なのか?」
大幅に省略した質問の意味をロイエンタールはあやまたず受け取ったようだった。
「言っただろう。会いに来た、俺の意志で。卿が呼んだのはきっかけに過ぎない」
ミッターマイヤーは力なく笑った。これは夢なのだから、自分の深層心理が彼の形をしたものに都合のいいことを言わせていないとどうしていえるだろう。
彼の腕の中から抜け出す。見上げていった。
「悪かったな、ロイエンタール。勝手に呼び出してしまって・・・」
視線は目の前の男に定められているのに、ミッターマイヤーが見ているのはこの男ではなかった。天上に坐す親友を見ているのだった。
「違う、ミッターマイヤー、俺なのだ。オスカー・フォン・ロイエンタールだ、この俺が」
彼は色の異なる双眸に苦悩をにじませていった。ミッターマイヤーは微笑む。かつて彼が自分の前で、これほどまでに感情を表したことがあっただろうか?


いつしか太陽は臨終を迎えようとしていた。最期の力を振り絞って世界をオレンジ色に染め上げる。
その鮮烈さにミッターマイヤーは目を眇めた。逆光で彼の顔は見えにくくなっている。
「ロイエンタール、卿は知らなかっただろうが・・・」
あまりの眩しさにミッターマイヤーは逃げるように目を伏せて言った。今なら言える気がした。
「おれは本当に卿が好きだったんだ。カイザーも奇跡のように素晴らしいお方だったが、・・・これはカイザーには言うなよ?卿もカイザーに劣らないくらいの男だと思っていたんだ」
「ミッターマイヤー・・・」
彼の声で紡がれる名に、目の前の男が『彼』でないと知りつつも胸が詰まった。
「カイザーやエヴァの手前言えなかったが、あの時おれは卿に殺されても構わないと、むしろ本望だと・・・」
今まで誰にも言えなかった本心を吐露していると、それを阻むかのように強く抱きしめられた。彼が耳元でひくく名前を呼ぶのを聞いて、ミッターマイヤーは目を閉じる。
「・・・思っていたんだ。ロイエンタール、・・・ロイエンタール」
彼の名を呼ぶ幸せをおもう。名を呼ばれる幸せをおもう。ひとりでは成り立たないこの幸せに、胸が詰まって声が出なかった。
そんな彼の背をロイエンタールがあやすように撫でる。どんなときもこいつは余裕だった、と思い出してはまた涙が出そうになった。
「ミッターマイヤー」
呼びかけにミッターマイヤーは肩を震わせた。
「卿は知らないだろうがな・・・おれは卿の何十倍も卿が好きだ」
嘘をつくな、という言葉は声にならない。代わりに軽くにらむ。
「俺は俺だ。偽物も本物もない。卿にはとうとう信じてもらえなかったが・・・だがしかし、俺は卿に嘘は言わんよ」
別離を匂わす言葉に彼を見つめると、男は二色の双眸をきらめかせて笑った。
「ではな、ミッターマイヤー。愛している」


ロイエンタール、と紡ぐはずの口は動かなかった。ミッターマイヤーは目を見開き、椅子から立ち上がる。
室内は夕日をうけて朱く染まっていた。顔に冷たさを感じて手をやると水滴がついていた。
彼はいなかった。


「夢・・・」
口に出してみて、自らの滑稽さが改めて身にしみる。
やはり夢だった。判っていたことだ―――わかっていたのか?本当に?実は心のどこかで信じていたのではないか、彼の魂が自分のところに来てくれたのだと、中世のお伽話のようなことを・・・。
ミッターマイヤーは自嘲の笑みを浮かべた。下らないことだ。
世界は早くも夜の帳を下ろそうとしていた。今日は寝てばかりだった、と反省しつつ、午後にやるつもりだった書類を一瞥もせずにバイエルラインに執務終了の連絡を入れた。
今はただ無性に家族の顔が見たかった。思い出は美しいまま心の奥にしまっておけばいい。自分はまだ生きなければならないのだ。